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お金がない日は相模線 (2013年5月18日,26日)(5)
〜川寒川支線〜

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 1つ前のページで、相模線 西寒川支線 についてご紹介しましたが、相模線 には、もう1つ 寒川駅 から 川寒川駅 までの 貨物線 もありました。この 貨物線 は、1921年(大正10年)相模線相模鉄道 の路線として最初に開業したときからの由緒ある路線です。西寒川支線 と同じように、相模川 で採取した 砂利 を輸送することを目的として建設されました。ですが、1931年(昭和6年) には 廃止 になってしまっています。もう80年以上も昔のことですからその痕跡を探すのは難しく、川寒川駅 がどこにあったのかなども含めよくわかりません。とは言うものの、せっかく 寒川 まで来たのですから、次は、この 川寒川支線 の跡を可能な限り巡ってみたいと思います。
 なお、この 貨物線 は何と呼ぶのがよいのかよくわからないのですが、ここでは便宜上、川寒川支線 と表記することにさせていただきます。

 また、前のページと同様に、こちら↓↓のサイトを参考にさせていただきました。

 四之宮ふれあい便り
 四之宮駅跡・廃線跡ウオーキングしました
 http://hiratsuka.johokyoyu.net/area/shinomiya/default.asp?c_id=2322

 このサイトにリンクされている資料に、地図が掲載されています。
 その地図は 「大正10年測図昭和2年鉄道補入」 とあり、西寒川支線川寒川支線 の線路も記されています。今回、この地図(以下、資料[1] と記します)がとても参考になりました。

 というわけで、まずは A地点(1つ前の記事の地図参照) まで引き返し、さらに 相模線 の線路に沿って少しばかり歩き、J地点 にたどり着きました。

 このページの最後の方に地図を載せます。記載している丸数字がどの地点になるのか、その地図をご参照いただければと思います。


【J地点】
現在の相模線と川寒川支線の分岐点と思われるあたり

 この↑↑写真は、J地点 から 寒川駅 の方向を向いています。
 確証はないのですが、現在の地図で考えると、「川寒川支線 が分岐していたのはこのあたりではないかなあ」、という気がします。


【J地点】
現在の相模線と川寒川支線の分岐点と思われるあたり

 この↑↑写真は、同じく J地点 ですが、1つ上の写真とは逆で 宮山駅 の方向を向いています。ちょうど、寒川駅 13:09発茅ヶ崎行き がやってきました。今私がいる、この細い道を歩いてみることにします。


【K地点】
この道は 川寒川支線 の線路跡なのでしょうか??

 この道は、左側へ緩やかにカーブを描いています。このカーブが、鉄道の線路特有の曲線に見えて仕方がないのですが、気のせいでしょうか?
 ですが、残念ながら、この道が 川寒川支線 の線路跡という確証は何もありません。JTBキャンパスブック「鉄道廃線跡を歩く」(全10巻) でも、この 川寒川支線 は取り上げられていません。また、インターネットで検索しても、この道を線路跡だと証拠を示して断言してくれるサイトは、私が知る限りありません。
 というわけで、この道は線路跡でもなんでもなくて、どこにでもあるただの道なのかもしれませんが、いずれにせよ、川寒川支線 がこの付近を通っていたのは確かだと思います。「とにかく雰囲気だけでも味わえれば」 と思い、この道を進むことにします。


【K地点からL地点へ】
この道は 川寒川支線 の線路跡なのでしょうか??

【L地点】
目久尻川で行き止まりです

 K地点 から歩いてきた細い道は、相模川 の支流の 目久尻川 によって行き止まりになりました。


【L地点】
目久尻川

 資料[1] にもこの 目久尻川 は記されていますし、川寒川支線 が現役だったころは、このあたりでこの川を渡っていたのでしょう。
 ですが、ここを一直線に渡ったとしても、対岸は、住宅やマンション、パチンコ屋などにぶち当たってしまい、川寒川支線 の痕跡らしいものはありません。資料[1] を参考にすると、マンションなどよりももう少し南側(つまり、県道47号線かさらにその南側)に線路が敷かれた可能性があるのかも、とも思えます。
 念のため、目久尻川 を渡って、県道47号線 の南側にも行ってみることにします。


【M地点】
県道47号線の南側 カラオケ店の駐車場付近

 このあたりに線路が敷かれていたかは、私にはわかりません。
 目の前の高速道路は 圏央道 ですが、資料[1] で、「川寒川駅」 と記されているのは、ちょうどその 圏央道 があるあたりになると思います。
 資料[1] では、このあたりから 相模川 の河原へ向け、北西方向へ線路が伸びていたことになります。


【N地点】
相模川の河原 川寒川支線の線路が伸びていたと思われる方向をのぞむ

 この↑↑写真は、県道47号線神川橋東側交差点 の近くから撮影しています。
 私がいるあたりから、写真の中央へ向かって線路が伸びていたのではないかと思います。 四之宮駅 と同じように、このあたり一帯が 川寒川駅 で、砂利 の採取と 貨車 への積み込みをしていたのかもしれません。もちろん、痕跡は何もありませんので、頭の中で当時のことを想像するしかありません。
 事前にわかっていたことではありますが、確証を持って 「これが 川寒川支線 の跡だ!」 と言えるようなものはありませんでした。でも、なんとなく雰囲気を味わえただけでもよかったと思います。


【N地点】
県道47号線 神川橋

 この橋を渡ると、平塚市 です。
 天気が良い日は、このあたりからでも 富士山 が見えるのだそうです。

 最後に地図を載せておきます。この地図は、国土地理院電子国土ポータルサイト から必要な部分を印刷し、加筆して作成しました。

 国土地理院・電子国土ポータル
 http://portal.cyberjapan.jp/




 2週に渡ってご紹介した、相模線 の旅はこれでおしまいです。
 最後までご覧いただき、ありがとうございました。

 −終わり−




【2013/6/8追記】

 図書館 に行って 「寒川町史」 などをペラペラめくってみたところ、新たにわかったことなどがありましたので、以下に記します。

(1) 川寒川駅について

 「寒川町史 13 別編 事典・年表」 に、川寒川駅 の項があり、以下のように書いてありました。

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かわさむかわえき 川寒川駅
 相模鉄道の貨物駅.寒川駅の北西約1.4km,現在の川とふれあい公園付近に位置した.大正10年(1921)9月,茅ヶ崎−寒川間で相模鉄道が開業すると同時に施設された貨物線の終着駅.当初は「川端」という名称で準備が進められたが,北海道や和歌山県に同名の駅があったことから,開通直前に名称が変更された.翌年開業した四之宮支線とともに,相模川の砂利輸送に大きな役割を果たしたが,昭和6年(1931)11月,廃止された.
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 この記述から、最初から 「川寒川駅」 という名前になる予定だったわけではなく、 「川端駅」 で考えていたことがわかりました。
 また、「寒川駅の北西約1.4km,現在の川とふれあい公園付近に位置した.」 とありますので、N地点 で掲載した写真に写っているあたりが 川寒川駅 だったと考えても、矛盾はしていないかと思います。

(2) 当時の砂利採取の様子について

 (1つ前のページに追記した内容と同じです。)

 「寒川町史 15 別編 図録」 に、当時の 相模川 での 砂利採取 の様子を写した写真が掲載されていました。手掘り だったころの様子、昭和期になって導入された 機械船 などの写真があり、また、トロッコ から 貨車 へ積み替える様子の写真(ただし、どこの駅のものであるかは記載なし)も掲載されています。当時の雰囲気が伝わってきて、とても参考になりました。

 もし、相模線 を含め、当時のことを調べている方がいらっしゃいましたら、ぜひ図書館などでご参照いただければと思います。



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